第十章 決戦間近 その夜は新月だった。 めぼしい雲もない晴天の中、今まで舞台を月によって邪魔されていた脇役の星星が、今日という日に目立つべく必死に光り輝いている。それはまるで金粉を空にぶちまけたような、そんな輝きをしていた。 星空の下、私たちは暗闇に身を隠し、狭いあぜ道をギリギリ四列縦隊で進む。 新月のため、大分暗いが、目が慣れてしまえば前にいる人影ぐらいはわかる明るさがあった。その人影を追いかけるようにして走れば問題なく突っ走ることができた。地面も少しだけ認識することができ、田に嵌ったり、大きな石でずっこけたりとはしない。できるだけ、無音に無音に……。 しかし、一つだけ問題が起きる。 「千人も一度に走れば足音が凄いな」 私が予想だにしていなかったこと。それは足並み乱れぬ優秀なグラウコーピス軍だからこその足音だ。重たい鎧を身に着けているがため、一歩一歩がさらにうるさい。新月の夜ともなれば自然界に音はあまり存在しなくなるため、これはよく響いてしまう可能性もある。 「そろそろ砦だ。全軍に通達、停止せよ」 「はっ!」 いきなりの停止は極めて危険。まずは停止するという言葉を最後尾まで伝えてもらい、最後尾から徐々に停止していく方法を取っていた。 足音が消え、あたり一面が静寂に包まれたところで私は再度足を前に出した。ここからは徒歩で静かに砦を抜ける。距離的に歩いているだけであったとしても夜明け前にはイオリアに到着できる見込みであった。優秀な兵士たちがゆえ、私の計算より極めて早くに作戦は進むことができる。 そこからしばらく―――おそらくは一、二キロであろうが―――歩いたとき、我々の右前方に松明の灯火が見えた。その光量はまるで太陽のよう。その強力な光は砦の全容を我々に明かしている。しかし、それは厄介なことでもあった。予想以上に敵の光が強すぎる。見張りの兵も十名以上とかなり多い。 「これは不味いな」 田んぼの土手に私たちは身を潜めていた。稲を刈り取ったあとのようで切り取られた稲の茎が私の尻をつついて痛い。転倒すれば尻の処女が奪われてしまうかもしれない、と冗談を考えながら私は隣にいるアルテミスとともに対策を練った。 「はてさて、どうすっかな。まっすぐ進めば確実に見つかるな」 「このあたりの地形はどうなってるんです?」 「右は砦だ。左手には農村がある。両者の距離はおそらく一キロってとこかな」 「農村の横を通るという手がいいでしょうね。新月の夜では民たちは寝てしまっているでしょう? 私たちの国ではそうですわ。そして、丹念に子作りに励むのぉ〜」 そこで私の手を掴むな、馬鹿者め。 「いや、待て……」 私は握られた自分の手を振り解き、猫のように暗闇では性能がいい目を村へと向けた。わずかな家屋のみしかない村のほうから松明に火を灯した兵士たちが出てくる。奴らは我々の潜むずっと前のあぜ道を通って、やがては砦へと向かっていった。 「駄目だな。あの村には兵士たちの炊事をするところがあるんだろう。迂闊に行けば出くわしてしまいかねない。そうなれば村が戦場になる。私たちのことも知れてしまうしな」 どうしたものか……。 私は講義を何とか抜け出したい学生のような顔をして考え込んだ。このままいっても確実に発見される。しかし、農村近辺を迂回しても発見される公算は高い。本来ならば確率の低い迂回路を通ることがいいということになっているかもしれない。だがしかし、発見される確率が少しでもあれば動くべきでないのが隠密作戦。私はアイレスからそう教わった。 弟にケーキを食べられたくなければずっと隠して腐らせてしまえ。 これを教えられたときは理不尽すぎて涙が出た。 「今は右に迂回しよう。砦の正面を抜けたところで左へ曲がる。距離が一キロ程度伸びてしまうが仕方がない。安全に進むのが今の最重要優先事項だ」 「ええ。そうしましょう」 アルテミスの大賛成の声に私は呆然とさせられた。ほかに案はないのか? とにかく速やかな行動が必要の今、早速私は部隊の指揮官にそれを伝え、それが各兵に伝わった時点で行動を開始した。 四列縦隊二百三十メートルにもなる巨大な蛇は、敵に発見されない程度の距離で砦の前を通り過ぎ、しばらくまた歩いてから一気に左折。光の及ばないところを通り抜け、さらには南下した。砦の左手には深い森があり、そのすぐ傍を通って進んだ。もはや田園のため、ぬかるんでいるところさえあって行軍の速度は遅くなった。 しかし、これでイオリア奇襲できるかどうかの最大の問題、砦の横を通り抜けるという目標は達した。 警戒心さえ抱いていれば発見する方法はいくらでもあったろうが、砦にいる兵士たちは、戦争はサトゥル国だけで行われているという、楽観と油断から私たちを見逃したのだ。 人が通る道のない砦の左側には、監視者はわずかに三人。しかも城壁にもたれかかって談笑していた。こちらを見ているものは誰一人としていなかった。愚か者どもめ、わざわざ見つかりやすいほうを進む馬鹿がいるものか。 かくして遠回りをする形で本来のあぜ道に戻った我々は、再びイオリアへと向かって駆け出した。相変わらず凄い足音だが砦もすでに後方遠く、周囲にも人影はなく問題はないだろう。 兵たちは息を荒々しくさせながらも、必死の思いで先頭を走る私とアルティを追いかけた。一応、あとから来るのならばということで休憩も許していたが、誇りたいぐらいに彼らは誰一人として、途中でその歩みを止めることはなかった。 やがて、私たちの最終目標が暗闇に包まれたこの世にぽつんと灯りを見せる。 「見えたぞ、イオリアの都の光だ!」 私は柄にも無く興奮した声を上げた。兵士たちもずっと遠く、地平線の彼方とも考えられるほどの向こうに、大きな明かりを確認した。おそらくタイタニア陥落の一報が入ったのだろう。普段ならばこの時間帯、明かりという明かりは微弱なのが普通だ。しかし、今夜は町全体から光が上がっている。夜通し、勝利の美酒を味わおうというのだろう。 今宵は、良い酒が飲めそうだ。 「帰ってきたぞ、我が都! 徹底的に滅ぼしてやるから覚悟しろ!!」 「ええ! おめでとうございます、アティナ様!」 隣を走るアルテミスが笑顔を浮かべているのは声の感じでわかった。 私は私で、いよいよ復讐のときと、揺れるのを防ぐために剣に添えた左手を強く握り締めた。この気持ちでいるのは兵士たちもおそらくは同じだろう。彼らは親兄弟の仇をしっかりと討つべく、興奮に体を支配されながらも黙って走り続けた。 まだまだ時間は日付が変わったあたり。作戦開始時刻まで、あと四時間はあった。軍勢と都の距離はどんどん詰まっており、軽く休憩を挟んだとしても午前二時には都の足元。一キロ手前にある未開の森の中へ入ることができた。 ここが、最後の作戦企画会議の場だろう。 鬱蒼とした密林。素肌ではちくちくして痛い草が生い茂る中に我々はいた。 腰を下ろして、駆け足による息の乱れを調えようとする者は多かった。やはり、無理をしていたようだ。時間も時間のため、最後の休憩として一時間を私は与えた。 この一時間で、彼らは今までのこと、そしてこれからのことをよく考えてほしかった。 皆、地獄の苦しみのような行軍によくぞ耐え、ようやくここまでやってきた。しかし、作戦を展開して見れば死ぬものも多い可能性が強い。復讐さえもできぬまま、消え果てしまう可能性もある。それでも割り切れるのか、どうなのか。私は自ら向かい合って考えてほしかった。 我らの兵力は正式には千二百六十五名。城内には千三百名近い兵団がいる。彼らはサトゥルの衛兵のように優秀というわけではないものの、数が数だ。何人、私の部下が殺されるかはわからない。できるだけ、被害を少なくする作戦で行くつもりだが、それでも部下は必ず死ぬ者がいる。 本当ならば攻め込みたくはない気持ちもないわけではなかった。私は、サトゥルの大軍団がタイタニアを奪回し、そのあとですぐにこちらへ向かって進撃してくると確信している。一週間もすれば、その巨大な狼軍団がイオリアの兵士たちを恐怖させるはずだ。それまで待つということもできる。この密林は人が入らないゆえ、水さえ確保できれば耐え切れる。 ハート型の草の上に腰を下ろした私は、その真っ赤な前髪を掻き上げ、一人しみじみと考え込んでいた。戦うべきか、戦わぬべきか。もしも、戦わないほうを選べば兵たちの士気を極端に低下させ、私への非難となってくるだろう。だが、兵士たち一人一人の命を考えるとそれでもいいとさえ思えてしまったのである。 そんな小難しい顔をして悩みふける私に、炊事班から分けられた乾パンと水を持ってアルテミスとヘルメス、アフロディテとヘスティアが近づいてくる。ランプを灯しているため、私の位置は一目瞭然だ。 「お疲れですか?」 と一言いうアルテミス。 「乾パンですが、よろしければどうぞ」 とヘルメスが暖かい声を上げて私に差し出した。私は黙って彼が差し出したそれを受け取ると一息ついてから食べた。ぱさぱさしていい味というわけでもないが、夕暮れから何も口にしていない私にとっては、これでも立派な糖分補給であった。 「いよいよですね」 アルテミスが兵たちに呼ばれて席を外している間に、我が夫のヘルメスがにこやかな笑顔を浮かべて私の隣に腰を下ろした。 「本当に……この兵士たちだけで攻め込んでいいのだろうかな」 「ここまで来て臆したんですか? あ、それともやはり同郷を?」 「……兵たちを死なせるのが怖いだけだ。私は一人でも攻め込むし、都が陥落して全ての人間が殺されようがなんとも思わない」 「アティナ様……」 兵は使い捨て。そう軍学校で、アイレスから習った私。だが、こうして一週間近く彼らとともに一緒にいたことで、私は指揮官としては望ましくない親近感を持ったのだ。彼らのことなど使い捨てられると思うか? 彼らも私と同じ唯一無二の人間だ。 「そう思ってもらえるだけ、この軍の兵士たちは幸せ者だわ。私も、大勢の仲間をたった一度の戦いで失ってしまった。貴方のその気持ち、決してわからないわけではないわ」 「お姉様……」 「でもアティナ。兵たちは死ぬために生きてるって貴方言ったじゃない? 彼らの中で何人が死んでしまうか分からない。でも、それでも彼らは貴方を決して怨もうなんてしないはずよ。兵士たちは明日をも知れぬ命のため、必死に今日を生きている。貴方が臆して攻めないなんて考えるのは、そんな彼らへの冒涜でしかないと思うわ」 アフロディテはそう言って乾パンを頬張る。 「む、難しいことは私にもわかりません。でも、フロディアさんの言うとおりだと思います。皆、アティナ様と戦えたこと、死んでしまっても誇りにしてくれますよ!」 珍しくヘスティアが眉を吊り上げて叫んでいた。 「そうだろうか……。でも……」 そんな、膝を抱えて考え込む私にヘルメスは意を決した。彼はいきなり私の体に背後から抱きついたのだ。 「うわぁ……」 「に、兄様……」 アフロディテ、ヘスティア揃って赤面して目をキラキラさせている。 「アティナ様は本当に味方にはお優しい方なんですね? そんな貴方が私は好きです」 そのいきなりの夫からのアプローチに、私もすっかり赤面状態に陥ってしまう。 「お、おかしな気がしただけだ。人という存在には変わらないのに使い捨てにされるものもあるし、優先して生かされるものもある! 一体、その差異の現れはなんなのだろうって考えてただけだ! 悪いか?! あぁん?!」 「フフ」 こいつ、私の取り乱しっぷりに笑いやがった?! 「その答えはおそらく見つかっても変えることは難しいでしょうね。俺たちは優劣をつけたがる存在ですから」 「お前も優劣をつけるのか?」 「劣等感ばかりですけど……。貴方とかに対して」 「それはお前が根性なしなだけだ。私を守るぐらいには成って見せろ。男は命を懸けて自分の女を守るものだぞ? 全く非力な腕をして。こんなんでよく剣が触れるものだ」 私は鼻で笑って彼の非力な細腕を摩った。でも、そのひ弱そうな細腕が私にはどんな豪腕よりも嬉しかった。内気といわれていた彼が積極的に私を慰めてくれること。その細腕にも暖かい心と血があるということ。どれをとっても、もはやこの男は私の目に適う男だ。この男ならば私の身を生涯渡しても後悔はしないだろう。 まだまだ改善すべきところは多いがまだ十七歳。これからどうにでもなっていく。妻として私は夫であるこいつを立ててやらねば……。 「……ま、お前が私を抱きしめた覚悟は認めてやるよ。私も恐れる姉に喧嘩を売ったことは素晴らしい覚悟だ」 「……はい?」 「うわぁ?!」 「きゃあっ?!」 アフロディテ、ヘスティア師弟が顔を青ざめあせて驚く中、彼はおもむろに苦笑している私の頭のさらに上に視線を向けた。すると、そこには光がない状況にも拘らず、誰が見ても判断できるアルテミスがいた。轟々と殺意を全身から噴出させ、また、それが篭もった鋭い眼をして佇んでいる。口も完全にへの字になっていて、牙が見えるような気がした。 おしとやかな清純姫騎士も牙を剥けば、まるで獅子や虎の域を軽く飛び越え、数々の勇者を喰らったホワイトドラゴンという感じだ。あぁ、恐ろしいねぇ、全く。 「メイスちゃぁん? 私のアティナ様に何をしているのかなぁ?」 ドスの効いた怒声だ。その淡々とした口調から発せられるそれは、はっきり言って私でも怖い。私は一切の反論を拒否した。 「い、いえ。アティナ様が何やら悩んでいるようでしたので……。ですよね、アティナ様?」 「…………」 私は目を瞑ってヘルメスを捨てた。心の中では何度も何度も頭を下げて土下座し、その固い地面に額をこすりつける。まぁ、あくまで心の中の話なのではあるが、それでどうか勘弁してください。 「メイスぅ? 覚悟は良いかしらぁ? 貴方、最近調子に乗ってるわよねぇ。私のアティナ様に気安く抱きついて、声を交わしてぇ……」 本当にいつの間にこいつはこんなに黒くなったのだろう……。ぶりっ子の顔の後ろに見える凶悪な本性。それが私にはとても怖くてたまらない。もしも、私が処女でないことがアルテミスに知られたら、ヘルメスは殺されるだけではすまないかもしれない。異教徒の烙印を押され、王族の称号も剥奪された上で、戸籍、歴史、王家系譜より抹消される。そんな気がした。 「メイス? 今回の戦で貴方は死になさい」 「そ、そんなぁーっ!!」 「でなくば、私が殺します」 「ゆ、許してくださいよ、姉様!!」 二人の姉弟がなにやら大変なことになっている傍ら、私は逃げるようにしてアフロディテ、ヘスティアともども指揮官を集めにいった。攻撃のための指示をするために。 本作戦は二方面攻撃に出る。 ジュピネルの都イオリアは、平坦な場所には民家が立ち並び、少し丘となっている場所にレットバードの異名を持つガリレウス城がある。 城門は一つ。南に設けられていた。しかし、この都において王族しか知らないことがある。実は南門が陥落して大軍が雪崩れ込んできた際に、王族が逃げられるシステムがあった。 ガリレウス城から、都外北へと逃げ延びるための秘密のトンネルが地下深くに設けられているのだ。建国以来、何十年もの間、そのトンネルはいざというときのために欠かさず整備がなされている。私も十分にその出口を確認していたから、出口と入り口の場所をしっかりと覚えていた。 そこで私は、自分とヘルメス、それと百名の兵がそこから城へと直接攻撃に出て、アフロディテ、ヘスティアを加えたアルテミス率いる本隊が南門より攻撃する作戦を企てた。 まず第一フェイズとして、我々がガリレウス城に脱出路を通って侵入。侵入成功の合図を発するため、城内で一本の火矢を空へ向けて放つ。これが第二フェイズの開始の合図だ。それを認め、表にいるグラウコーピス軍本隊が火矢を街に一斉に射掛けるのだ。 この時期、刈り取った麦やコメが乾燥のため、豊富に家の前で干されている。それに打ち込むことができれば、一気に街は炎上するだろう。ただでさえ、熱に弱いレンガや、燃えやすい木々で作られた家具がいっぱいの街だ。炎を上げれば忽ちに街を包み込む。 街はまるで火炎地獄のように火達磨になるだろう。軍隊も大混乱の最中で表へと飛び出してくるに違いない。そのときこそが、門が開く瞬間だ。最初は表に出てくる敵兵を矢でできるだけ排除。その後、街中に突入して残党勢力を排除する。それが第三フェイズ。 第四フェイズは第二フェイズと共に私たちが城の中を暴れ周り、王族を殺害。国旗を引き摺り下ろし、サトゥルの国旗を翻す。 そして、戦争の終結となる予定だ。 これが一通りの作戦だ。勝利の美酒に酔いしれているがため、敵を完膚なきまでに叩きのめすのは不可能ではない。ではないのだが、指揮官たちはその作戦がイオリアで生まれ育った私の口から発せられたことに動揺を隠しきれていなかった。 彼らは自分たちに置き換えて考えているようだ。もしも自分がタイタニアに対して、本作戦を実行するように命じるとしたら……。おそらくはできないだろうと彼らは思った。 しかし、それは場所が場所による。私とてタイタニアには火を射掛けられない。憎しみしかないイオリアだからこそできるのだ。その辺をどうかご了承してください……と内心で思った。 「質問がなければあと二十分足らずで行動を開始する。作戦についてはアルティより追って指示があるだろうからよろしく頼む。いいか? これが最初で最後の作戦だ。できるだけ兵は死なすなよ? 少しでも危なくなったら撤退しろ。大勢で挑めば勝てるときもある」 私の訓示に指揮官たちは揃いも揃って敬礼をした。その若々しく――それでも私よりは年上だが――いい顔揃いに私も微笑を浮かべて敬礼をした。 指揮官たちを解散させた後、私は、本来ならば最初に教えておくべきグラウコーピス軍元師団長のアルテミスとヘルメスに対して、作戦の全容を伝えに動いた。しかし、いざ出向いてみると……。 「メイス! なんで貴方ばっかりアティナ様のご寵愛を受けられるの?!」 「ね、姉様っ! ど、どうか御気を静めてください!」 「あ、アルテミス様、ヘルメス様に危害を加えなさるとアティナ様からきつい罰が与えられますぞ?! ここはどうか御気をお沈めください!」 「アティナ様からなぶられるのなら本望ですっ!!」 四人ほどの屈強な兵士達に力づくで押し留められるアルテミスと、怯えて腰砕けとなったヘルメスの、おもしろいような、怖いような絵面がそこにはあった。 「お前ら……」 「あ、アティナ様ぁあん!」 作戦を伝える前に、抱きついてきたこの馬鹿娘をどうにかしなければならないだろう。 私はがっくりと肩を落としてアルテミスの体を抱きしめてやった。気が済むまで頭や背中、尻を撫でてやった。その際、ピンク色の声を上げやがったこいつに、本気の殺意が目覚めたのは言うまでもない。 「んもぉ、メイスなんかより私を可愛がってください!」 「全く、最終決戦も近いというのにこの様かよ。少しは緊張感を持て」 「キスしてくれたらいいですよぉ?」 「な、なんだと?!」 「フフフ。さ、さ、お早く」 目を瞑って唇を突き出すアルテミス。まるで私を嘲笑しているかのような笑顔で待っていた。私がキスなんか出来るわけないとでも考えているのだろう。はっきり言ってムカツク顔だ。 「……わかった。してやろう」 「ほ、ほんとですかぁ?!」 ん? 狂喜するかと思っていたが、驚愕している。 「なんだ? してほしかったわけじゃないのか」 「い、いえ……アティナ様がしてくださるなんて珍しい」 「んじゃ、しねぇ」 「そ、そんなぁ! ぜ、是非とも私とキスしてください! んっ!」 目を瞑って唇を突き出すアルテミス。そんな彼女を目の前に、私は意を決した。ここでしなければ未来永劫ずっと付き纏われる。そんな恐怖に勝てるほど私は心が強くない。同時に、このままの状態で最後の戦いに望めるわけがない。一切の蟠りを断ち切った上で、戦には望みたい。特にアルテミスは本隊の指揮官だ。彼女の考え一つで兵の生死が決まってしまう。 私はアルテミスの頬を両手で押さえ込むとそのまま勢いよく唇をぶつけた。ガンという音がしたかと思うと、私たちはそれぞれ唇を押さえ込んで地面に膝をついた。 「い、いてぇ……」 「はぅぅ、幸せですけど感じる暇もありませんでしたぁ〜」 「も、もうしないからな? これからは大人しくしてろよ?」 「うぅぅ、キスだけどキスじゃないもぉん」 「……ったく、我侭女王!」 真に以って遺憾ながら、私はアルテミスの頬を再度押さえ込むと、今度は静かに速度を殺して唇を近づけていった。アルテミスの手は私の体に巻きつくように絡み、キュッとしまった。正直、吐きたい。気持ち悪い。でも、それでもしなければならない。権力とは、なんともまぁ、世知辛いのか。 「んっ」 唇がやがては触れ合う。アルテミスの唇はとてもとても柔らかい。甘い吐息も私の顔にかかり、私も羞恥から赤面してしまっていた。すると、無抵抗であることをいいことにアルテミスは私の口の中に舌を潜り込ませてきた。激しく私の舌と絡み合い、唾液を互いの口の中で押し問答し合わせる。なんともエロティックだろうか。 「ん! んちゅっ、んはぁっ、じゅる、んちゅ」 零れるサウンドエフェクトもさらにエロスを醸し出している。私の隣にいるメイスなんかは純な少年の心を弄ばされ、股間部を抑え込みながらモジモジしている。その様がなんとも可愛くて、私の理性は奴のせいで跳びそうにもなった。 「んはぁっ。も、もういいか?」 「は、はい……。も、もう私、死んでも良いです……。あのアティナ様に、キスしていただけるなんて……。ああ、もう最高すぎて何も考えられません……」 「ば、馬鹿ヤロウ……。お前がいなくなったら誰がサトゥルを再興するんだよ。お前は私が命に賭けても守ってみせる。だから、お前も私のキスに応え、サトゥルを素晴らしい国にしていけ」 「はい!」 力強い声で即答してくれたこの単純明快な馬鹿娘に、私はにこやかに微笑んで再再度口付けしてやった。不思議と、一度してしまえばもはや抵抗は無いに等しい。心情の神秘的なそれに私は思考を巡らせながら私はアルテミスとキスを交わしたのであった。 「うわぁー……」 そのキスシーンに対し、私を探しにやってきたアフロディテが、本気で嫌そうな顔をして声を上げていた。 「な、なにしてんの、あんたたち……。あんたたちそんな関係だったんだ……」 侮蔑の気持ちが含まれた痛烈な視線を浴び、私は思わずアルテミスから離れた。アルテミスは、いつかヘルメスにキスをされた私のようにメロメロになっており、体をくねらせながら余韻に浸っている。 「い、いや……。こ、こいつがキスしないと満足に働かないとか言うから……」 「そうだとしても、さっきのアティナは喜んでアルテミス様にキスしてたよね」 「うぐっ?!」 「なるほどなるほど。つまり、貴方はそう言うことだったと……。サトゥル王家の姉弟を娶ろうだなんて、流石は種馬のデウシウスが娘」 「ち、違いますって! あ、あとお姉様もデウシウスの娘じゃないですかぁ!」 「あ、やっぱり私の母と、貴方の知るディオネは別人のような気がするわ」 「な、なんでそうなるんですかぁ?!」 アフロディテの蔑む視線に小さくなりながらも、私は必死に弁明を図った。アルテミスはまだまだ使い物にならず、ヘルメスも私とアルテミスの濃厚すぎるキスを目撃して頭が沸騰していた。なので、自分自身の弁護は自分自身で行わなくては成らない。 「フロディアさーん。あ、ここにいたんですね?」 と、場の空気も読まずにヘスティアがやってくる。 「って、どうしたんですか? この面白い光景……」 顔真っ赤のヘルメスと、クネクネしているアルテミス、顔を青ざめさせた私と、眉間に小じわを寄せたアフロディテ。誰かに説明されないときっと真実は分からないこの光景を見て、ヘスティアの頭の上には大きな疑問符が浮かんだ。 「フフ。ティア、私……とうとうアティナ様とキスしてしまったんですの」 「えぇ?!」 アルテミスが自慢げにそう言うと、ヘスティアの羨望の眼差しが私に向けられる。 「いいなぁ、いいなぁ。フロディアさん、決戦前に私にもチューしてくださいよぉ」 「嫌よ。私はこいつらとは違うの。全く嘆かわしい」 「強引に奪ってあげれば、あとは成すがままよ?」 「アルテミス様っ?!」 アルテミスの悪魔の一声。すると、ヘスティアは顔を真っ赤にした状態を維持したまま、叫ぶアフロディテの頬に手を添えると、そのまま唇を近づけていった。 「わ、私に触れるなぁっ!!」 すかさず、アフロディテの痛烈な膝蹴りが、ヘスティアの何も保護されていないお腹に加えられた。その衝撃でヘスティアは膝を折り、咳き込む前に草の上に崩れた。 「はぁ……はぁ……。アルテミス様ぁっ?」 「じょ、冗談です。冗談よ、冗談。あっはっは」 ギロリと釣りあがった目を主君に向けるアフロディテに、私も思わず唖然とさせられた。なるほど、やはり彼女は私の姉だ。戦士となった際の彼女の目つきは、私のそれとよく似ている。 「はぁー。まぁ、いいや。それより、アルテミスとヘルメス、あとお姉様にも作戦を伝えたいのですが……」 私はそう言って微妙な関係にある彼らに口頭で作戦を伝えた。アルテミスが私とともに戦いたいとでも言うのかと思ったが、キスが利いたのだろう。彼女は素直に私の作戦に従うと申し出た。アフロディテも異は唱えず。私がデウシウスを討ち取っても文句は無いと言った。 「じゃあ、そろそろ時間だから行くぞ。準備はいいな?」 「はい。この口付けにかけて、私は戦い抜いて見せましょう」 「アティナ、あとでお説教。まぁ、今は貴方の作戦に従うわ」 アルテミス、アフロディテはそう言うと、己の武器を取りに森の中へと姿を消して行った。私は私で殴打されながらも放置された可愛いヘスティアを抱っこし、ヘルメスとともに自分の武器を取りに向かう。 はてさて。最終決戦寸前だと言うのに、こんな調子でいいのかな。 「思ったとおり、城壁の上に監視兵はいないな。職務怠慢もいいところだ」 私、ヘルメス率いる王城攻撃隊は集合でき次第出発した。城のギリギリ傍まで暗中に紛れて進み、死角となる城壁伝いに北へと目指して歩いていた。 普段ならば、松明を灯して城壁の上から監視している兵がいるのだが、今宵は勝利の宴を挙げているため、いるべき場所に監視兵は誰一人としていなかった。城のほうからは能天気な歌が聞こえてくる。夜を忘れてのドンちゃん騒ぎをしているらしい。それが最後の娯楽で、最後の平穏だとは誰も思うまい。 私たち王城攻撃隊百名は壁伝いに速やかに動き、イオリアの北、抜け道の出口がある廃屋へとその足を進めた。 抜け穴はあきらかに不審な廃屋の中にある。ぽつんと佇むその様は、昼間ともなれば結構目立つのだが、町の者たちも誰一人として、関心を抱かないのだから私は不思議だった。まさかそこが抜け穴の出口だったと私が知ったのは十四のときだ。 「あれですか?」 「ああ。私が先に行く」 ヘルメスにそう伝え、私は廃屋に入った。 廃屋の中はさらに暗く、私がランプに火を灯せば廃屋の中の荒れようが克明にわかった。埃が雪のように積もっており、蜘蛛も多数縄張りを設けていた。昆虫界のギャングどもは、梁やら柱やらを基点に広がっている。後から入ってきたヘルメスたちも汚らしい廃屋に顔を歪めていた。 その廃屋の片隅、うまく偽装されたトイレの近く。そこに開閉式のハッチがあった。土がかぶされているため、抜け穴があるという事実を知らない人間にとってはまず見つけられない。城の中を探検していて偶然に見つけてしまった私にとっては、幸運といっていいだろう。こうして役に立つ機会が到来したのだから。 兵にも手伝ってもらい、ハッチの上の砂をどかせば、グレーの鉄板が数年ぶりであろう日の目を見た。まぁ、今は夜で太陽は無いが我慢してくれ。 この脱出口の開閉は内側からしか行えないものなのだが、それは取っ手がないからであって鍵がかかっているわけでもない。私はトイレ用具の中に入っていた、少し錆付いたバールを手にすると、それをハッチの隙間に引っ掛けて梃の原理で一気に持ち上げた。これがまた重い。数センチ浮き上がったところで兵士たちに手伝ってもらって完全に開ききった。 「よし、私に続け!!」 「はっ!」 私がまずは先駆けとして梯子を下った。やはり王族が通るかもしれない脱出路。廃屋の汚さとは打って変わって、脱出路は綺麗そのものであった。地下だというのに鼠一匹、虫一匹いない。手入れの行き届いているところをみると、父はいつでも逃げ出せる準備……つまりは自身が命を狙われるようなことをしていると自覚しているようだ。 梯子を折りきったところで、人の背の高さを悠々超えるトンネルが目の前に現れる。私はランプを翳しながら、声を殺して静かに静かに前へと進んで行った。万が一、誰かに遭遇しても瞬殺できるようにナイフを左手で握り締めて。 「この脱出路はどこに通じているのですか?」 子供らしい好奇に満ちた声で私に尋ねるヘルメス。 「城の五カ所に通じている。私たちが出るのは城の王族専用の避難所だ。そこは普段は使われていない部屋で格子窓が一つある。その窓は幸運にも南向きでな? 火矢を放つには絶好の場所だ。火矢を放つと同時に扉をぶち破って城内へと突入する。私は王の間へと向かうが、お前はどうする?」 「ついていきますよ。貴方のすること、全てを見届けたいですからね」 「へぇ。よく言ったよ、メイス。お前もやはり男だな」 「当然です」 「戦争が終わってからが楽しみだ。幾久しく、お前を鍛えてやろう」 「そ、それはぁ……」 私はクスクス笑い声を零しながら、焦りに包まれているだろう彼の顔を想像した。 「おっと……そろそろ分かれ道だ。ここを左に行くぞ。間違えるよ」 と私は率先して分かれ道を左へと進み、百名程度の兵士たちも間違えることなく私に続いてきた。 目の前に迫る、にっくき父親の首を飛ばす瞬間。それを考えただけで、今の私には背筋が震えるほどの興奮が沸いてきてしまうのであった。あの父が驚いたときの顔を見て、なんと言ってやろう。あの父を殺すとき、なんと言ってやろう。私は思わずしまらぬ顔をして、ランプを片手でそのままトンネル内を突き進むのであった。 |
||||||||||||
|